三島由紀夫と村上春樹

0ー はじめに

記憶の覚束ない幼少期の頃から、親の読み聞かせを通して数多くの本に触れてきた。

読書という読書を始めたのは小学3年生の頃と記憶している。

それまでの自分には悪いが、「かいけつゾロリ」や「妖怪レストラン」は自尊心の都合上省かせて頂く。

僕が小学3年生だった頃、NHKでは「坂の上の雲」というドラマが放映されていた。

その”壮大さ”や”登場人物の漢らしさ”に惹かれた自分は、親にドラマの原作である司馬遼太郎の小説全8巻をねだり、そして1ヶ月のうちに読破した。

それ以降中学に上がるまで「司馬遼太郎」と「東野圭吾」、「伊坂幸太郎」のほぼ全ての著作を読み耽ることになるのだが、主題の都合上これまた割愛させていただく。

 

主題にある、2つの名前を知らない人はいないだろう。

前者は割腹自殺をした、難しい小説を書いた作家兼右翼活動家。

後者はエロくてキザな主人公が「やれやれ、僕は射精した。」とのたまう小説を書く作家、だとかノーベル文学賞受賞を毎回期待されるも逃す作家。

などと思われているであろうことは想像に難くない。

 

まあ、こうブログの主題にしている点から御察しの通り、僕はこの両名の小説を好んで読む傾向にある。(”日頃の僕”を知る人達は意外に思うのだろうが)

 また、三島作品といえば”思想”や”美”に重きが置かれている一方、村上作品はそれらを全て冷笑した、”自身の幸福”や”喪失”そして”孤独”について書かれたものが多い。

この点からしてみても、三島由紀夫村上春樹というベクトルの大きく異なる作家を両方とも好んでいるというのは少し奇妙なことに思えるかもしれないが、意外とこの両名を好む人は多いような気がしている。

 

1ー 三島由紀夫

三島文学の特徴は、やはりその文章そのものの魅力から語るほかない。

彼の書く文章の論理性や知的密度の高さは正に日本史上の奇跡としか比喩できないものであり、彼の書く物語は古典文学から西洋文学まで広く渡る三島の知性と教養によって紡ぎ出された傑作である。ただ、彼の作品には彼自身が抱いていた根深きコンプレックスがついて回るのであるが、これはいつか時間がある時に掘り下げよう。

 

オススメの小説

金閣寺」「午後の曳航」「女神」「春の雪」「奔馬

 

2ー 村上春樹

村上春樹の本は失恋した時に読め」とは僕が常に友人たちに向けて言っている言葉である。彼の著作を健常者が読めば「なにこのナヨナヨしい男。まぢキモいんですけど」

という感想しか出ないのは僕の両親を見るに明らかである。現に、8〜90年代を過ごしてきた大人たちの多くは「村上春樹フィーバー」の煽りを受けた世代であり、意外と彼の小説を一度は読んだことがあるという人が多い。ただ、その多くから不評を受けるのは先述の通りである。”愛した人と、互いに愛し合いながらも何かしらの原因によって別れてしまった過去がある”という方も割と共感できる作品であることだろう。

もし「自分は健常者である」という方がいたら是非、購入は見送ることをお勧めします。

 

オススメの小説

ノルウェイの森」「国境の南、太陽の西」「青春三部作」「ダンスダンスダンス」

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」

 

3ー なぜこの両者を好むのか

三島由紀夫を読み始めたのは当時の僕が抱いていた「知的虚栄心」に依る。

当時の僕は傲慢でかつ自身の才能を大きく過信していた。そんな「超頭いい自分」が三島由紀夫を読んだら「超々々頭のいい自分」になるものだろうと思いこみ、確か「潮騒」から手に取ったことを記憶している。しかし、彼の小説を読んでいくにつれ、自分を圧倒的に凌駕する天才が日本にはいたこと、本当の知性とはなんであり、少なくとも知性に傲慢は不要であることを学んだ。

村上春樹については、最初は特に読んでいても思うことは何一つなく、ただ「読みやすい文章だな」だとか「比喩めっちゃうめーな」などという貧弱な感想しか抱いていなかった。しかし、失恋をした直後に「ノルウェイの森」を読んだ時、その瞬間に僕の中における彼の存在は非常に大きいものとなった。読書をする際にも「運命的な出逢い」というものがあると噂には聞いていたが、僕にとっての「ノルウェイの森」はそれに当たるものだろうと思う。

両名の作品を読んでいく中で抱いた共通点なのであるが、彼らは両名ともに非常に社交的で教養に溢れ、いわゆる「外面のいい」人たちであるのだろうと感じるし、現に彼らのエッセイや彼らについてを書いた書物を読んでいくにつれてそれが確からしいことも掴んだ。しかし、その作品にはその「外面」とは打って変わり、「コンプレックス」や「トラウマ」などと言った、彼らの「内面」を大きく占めていたであろう「負の遺産」が散見される。

あまり自己分析が得意ではないため多くのことを語れはしないが、多分僕はその両名に強い共感を抱き、それ故に彼らの作品を多読しているのだろう。