いかり肩な巨人

先日、友人と「なぜ日本には写実画という文化が確立されなかったのだろうか」という話をしました。

以下が僕の主張となります。

 

「絵を描く際に画家は何かしらの題材を選び、それを絵によって再現する。その題材は、時には空想上のものであるかも知れないし、また時には実在する草花のような身近なものであるかも知れない。後者に於いては、やはりその芸術の極地は完全なる複製を行うことにあると思う。実在するものを再現するという営みである以上、その技術の到達点はやはり完全なるトレース、すなわち写実画に他ならない。また、前者であったとしても同様に、その空想上の何かをあたかも実在するものように描くことが、その芸術の高度性を示すことになるだろう。何が言いたいかというと、写実というものは何かしらの要因が無ければ生み出されないというものではなく、絵画という営みが行われるならば必然的に志向されるものであると断定しても構わない。つまり、日本において写実画が文化として確立しなかった理由を考えていく上では、『なぜ生まれなかったのか』ではなく、『何が写実画の誕生を阻んだのか』にあると思うんだ。

西洋を例に出そう。

古代ギリシアローマ帝国においては、やはり写実的な芸術が創作されていた。しかし、中世から十字軍によってルネサンスが開花するまで、西洋芸術の写実性は失われ、のっぺりとした宗教画しか生み出されなくなってしまった。その原因は明らかで、キリスト教に依るものである。基本的には偶像崇拝を禁止するこの宗教に、文化的・政治的に支配された中世ヨーロッパでは、芸術の推進力となったのはその宗教的求心力である。すなわち、あくまでも概念化した信仰対象を崇拝するための手段として創作されるようになった芸術は、その写実性が失われてしまった。

しかし、ルネサンス以降、キリスト教によって奪われていた『理性』を取り戻そうと、世界を宗教を通してではなくありのままに見つめ出そうという運動が活発化し、それが今現在の『科学』と写実画を含んだ『芸術』とを創生した。

以上がものすごく端的にまとめた西洋芸術における写実画とキリスト教との関係である。西洋におけるキリスト教のような、写実画の発展を阻んだような存在が、たぶん日本にもあったはずなんだ。」

 

ここで僕の論は行き詰まりを見せました。

ここからは、僕とは全く異なる主張を行った友人の主張を以下にまとめます。

(大幅に改変するんで、本人が見てたらごめんちょ)

 

「俺は『芸術がある以上、必ずや写実画が生み出される』とする君の主張に異を唱えたい。そもそも芸術というもの自体が自然発生的なものなのだろうか。芸術が他の動物に見られるものではない以上、他の動物と人間とを分けているその境界である、言語的な文化の違いが芸術を生み出しているとは言えないか。君の話を聞いた後だからかも知れないが、俺は『宗教』が芸術を生み出す要因であったような気がする。ラスコーの洞穴に見られるような初期絵画もアニミズム崇拝の一環として捉えられるだろう。世界的にも、絵画の題材は宗教であることが多いし、日本においても古墳の壁画がその原始的なものだと思う。無論、当時の古墳は多分に宗教的なものであった。だから、俺は『何が写実画の誕生を阻んだ』のではなく、『なぜ生まれなかったのか、その点における西洋との差異はなんだ』で考えるべきだと思うな。」

 

以上が話の大まかな概要である。長々と書いたので、ここまでたどり着いた人は殆ど居ないかもしれないが、実はこれは未だ今回のブログにおける導入に過ぎないのです。もう少しだけ続くので辛抱強い皆様にはもう少しだけお付き合い願います。

 

今回のブログのタイトル名である「いかり肩な巨人」であるが、この「巨人」はプロ野球球団のことを指しているわけではありません。

皆さんは「巨人の肩に乗る矮人」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。ニュートンが初めて用いたと伝えられるこの言葉は『現在の人々は過去の人々よりもより大きな科学的功績を成し得ているが、これは我々が優秀であるからではなく、昔の人々が積み上げてきた功績をもとに研究を進めているからである』ということを意味します。

さて、導入の話と結びつけよう。

僕たちが交わした「写実画」に関しての論は、あくまでも高校教育や多分の一般教養と少量の専門知識とを持って語られました。ただ、僕らはこの会話を有意義なものであったと互いに自認しているし、なおかつ楽しいものであったとも思っている。まして、この論は先日のやよい軒終結したわけで、僕たちは決して今後独自に研究を行い結論まで至ろうとすることはないでしょう。

何が言いたいかというと、楽しい会話ができたから別にもう結構という話なのです。

しかし、より正確な結論を導くためには、僕たちが持ち合わせていないような、膨大な知識や過去の研究や事例、学説を学ぶ必要がある。このブログをどこぞの研究家に見せてみたら無数の赤線で僕らの論は修正を食らうことでしょう。

そう、この学問が発展した現在では、巨人の肩に登りきった状態でないと真理を見つけることは愚か、学問的な仮説を立てることすら叶わないのです。もし大した知識もなく仮説を立ててしまえば専門家たちによって炎上させられてしまう。

僕個人の意見でしかないですが、そんなのは余計なお世話なんですよ。

一つ例を出すなら、今物理学に対しての新たな仮説を掲示しようとするならば、古典物理学や数学を勉強し、大学・大学院にての研究や学習を行わなければならない。そのためには膨大な時間と労力が必要となる。数百年後には、もしかしたら人間の一生を経ても巨人の肩にすら到達できないほどの知識が積み上げられているかもしれませんし、もしそうなったら新たな知の創造はごく限られた人たちによるものとなってしまいます。

そう、巨人は年々いかり肩になっているのです。

知的創造や仮説を立てて友人たちと語り合うのは非常に楽しい。しかし、その「娯楽」は学問が発達していく上で得にくいものとなってしまう。

「どう考えるか」よりも「どれだけ知っているか」が要求されるような期間(受験勉強のような)が非常に長いものとなってしまう。

結局のところ、「知識の量」が必然的に求められるような社会へと舵が向きやすくなってしまうでしょう。(AIがインフォメーションタンクとして起用すれば別ですが)


結局のところ何が言いたいのかを自分でもイマイチ理解していないのでグダグダなブログとなってしまいましたが、何となくのニュアンスでも伝わればいいなと思う次第です。