同級生K

驕りだと思われるだろうが、「こいつには到底敵いようが無い」と思わされる人に現実世界で会ったことが殆どない。勿論、故人であったりメディアの向こうの存在であったり、一芸に秀でた様な人ならば枚挙に遑がないのだが、実際に会話を共にし得る存在の中で自分が圧倒される機会というのは極めて稀であった。

しかし、「殆ど」や「稀」と銘を打つ以上、少ないながらも僕が「完全なる敗北」を自覚した相手はいた。その一人が、僕が高校2年,3年と学級を同じくしたKである。

 

僕にとって彼は「途方も無い存在」だった。教養、機転、人間性、度胸、知性、、、如何なる点においても彼は僕の数段上を行き、僕が絶えず努力したとしても彼には敵いようが無いだろうという一種の諦念を抱かされる存在だった。

彼には「野心」や「行動力」といったものが欠如していた。しかしそれらの欠損は彼にとって瑕瑾とはなり得ず、寧ろ彼と接触した人が彼の人間像を「聖」という一語をもってして形容しだす様な、そんな「神秘性」を付与するものとなった。

僕は彼と初めて交友を持った頃、彼に対して強い嫉妬(というか負けん気)を抱き、彼と自分とを相対化する中で多少なり共の優位性を見出そうと苦心した。しかしそれは何の効果もないままに終わり、それ以来現在に至るまで僕は彼を尊敬...というかもはや崇拝すらしている。

 

今でもまだ度々会う機会があるのだが、何ヶ月か前に彼と交わした議論がたまに思い出される。

「賢さとは何だろうか?」というありきたりな議題を僕が掲示し、「”ノンジャンルの知的好奇心”と”頭の回転”と”絶対性への懐疑”」という3つの条件を僕が主張した後、彼は穏やかな笑みを浮かべながら「ユーモアのセンスかな」と答えた。

彼が異常なほどに謙虚であることを”知っていた”僕は「それは君には当てはまらない特徴の中からそれっぽいものを選んで言っただけだろ。過度な謙虚は時に有害だぜ」と返したのだが、彼はその笑みを絶やすことないまま「でも本当にユーモアのセンスは賢さを表す指標になると思うよ。必要条件ではないにしろ、十分条件は満たしていると思う。僕にはそれがないから、それを持っている人が非常に羨ましく見えるんだ」と言って話を終えた。

二人は互いに、これ以上この話に発展性が無いことを察知し、共通の趣味である「クラシック音楽」へと話題を移した。その後、僕が繰り広げた「グリーグのピアノ協奏曲はエロい」だとか「カラヤンの「英雄(ベートーヴェン交響曲3番)」はビッチ臭がするのに対し、ヤルヴィの「英雄」は処女性が感じられて尊い」などの馬鹿話で盛り上がり、特に前の話題に触れることなく別れた。

 

今となっては、彼は「僕が彼を謙虚な人間だと知っている」ことを”知っている”わけで、「ユーモアのセンス」と答えれば僕が不満を口にすることを”知っていた”のは確実なのだ。それを踏まえた上でも彼が「ユーモアのセンス」を挙げたのだとすれば、そこには確かに彼がそこに本質を見出したことは疑いようが無いわけで、未だ僕がその真意を完全に把握できていないことに僕と彼との”差”が明らかとなるのであろう。

今からでもLINEを使ったり、会った時に尋ねればいいのではあるが、やはり彼へとより近づくために、自分なりの解答を見つけたいと思う。