ワンダフルシネマライフ

「映画好き」といってもいろんなジャンルの映画好きがいるのは当たり前ですね。

ただ、ティーンエイジャーが映画好きを自称していたとしたら、多分その子はマーベル作品やらディズニー映画やらを好んで観るのだろうという予測はつきます。

映画をブログの主題にしていることから明らかだとは思いますが、僕も映画好きの一人です。ただ隠さずにいうと、老け顔なだけではなく趣味も価値観も老けているので、愛好する作品も少し(時にはかなり)古いものが多い。

映画自体を観るようになったのは高1の頃で、毎週土曜の午前中は膝の上に猫を乗せながらGEOで借りたDVDを1〜2本観ていました。虚栄心から三島由紀夫を読むような当時の僕は、やはり映画も”名作”と呼ばれるようなものばかりを貪っていたものです。

そんなこんなで色々と映画に関する知識や教養を蓄えたものの腐らせておくのは勿体ないということで、今回は僕がオススメする名作10作品をそれぞれ紹介していくこととします。さわり程度の簡潔な解説しかしませんので、興味が出る作品がありましたら、ぜひwikiで調べるなり鑑賞するなりしてみてください。

 

1、ゴッドファーザー

やはり一番最初は僕が一番好きな、かつ映画を観始めるきっかけとなった作品から。

3時間もある映画ですので、あまり慣れていない人に対してこの作品を1番にオススメするのは酷だとは思いますが、人生で一度はみて欲しい作品です。

舞台はWW2後のアメリカで、NYで大きな勢力を持つマフィアの一家に降りかかる悲劇と復讐を描いた渋くてカッコよくてダンディな映画です。

アルパチーノが半端なくかっこいいのです。

 

2、ニューシネマパラダイス

これは泣ける名作ですね。イタリアにある古い映画館を舞台とした、少し頑固な映画技師と映画好きな子供が繰り広げる、愛と笑顔に満ち溢れた映画史上に残る金字塔です。

特にラストシーンは非常に有名で、音楽も相まってハンカチ必携です。

彼女とお家デートを考えている人がいるとしたら是非この作品を二人でみましょう。

絶対に上手いことエッチに持ち込めることができます。僕が保証します。

 

3、シックスセンス

ラストシーンが有名な映画ということでシックスセンスを。

ブルースウィルスといえばみんな「ダイハード」を最初に思い浮かべることでしょうが、この作品を一度見てしまうとダイハードは二の次となること間違いなしです。

一応ホラー映画に分類されてはいますが、決して怖くないです。ほん怖が怖すぎて観れない僕がいうのだから間違いありません。

この作品に関してただ一つ言えることがあるとすれば、

「絶対にネタバレを見てはいけません」

一度見たら最後、僕はあなたのことを一生軽蔑しますね。あの感動を味わえないことになるのですから。

 

4、ターミネーター

おいおい、なに2作目から紹介してんねん!という怒号が聞こえましたので一つ弁明させてください。正直言ってターミネーター1は微妙なので見なくていいです。

ですが、この2は半端ない。3以降も見なくていいですが、2は半端ないんです。

1のあらすじとしては、シュワルツェネッガー扮するT800が襲ってきたけど逃げきったよ〜って感じです。

この作品もただかっこいいという点に尽きます。あのT800がグッドサインを出しながら溶鉱炉に消えていくシーンはあまりにも有名ですね。

あと、シュワちゃんの超絶肉体美が全裸で拝見できますので、そういう趣味のある男女諸君はお楽しみに。

 

5、スターウォーズep3

前作に続いてシリーズの途中ですがこの作品を。スターウォーズは特殊な作品群で、4→5→6→1→2→3という順番で観なきゃいけないんです。7以降は知りません。

特に8の話題は絶対にしません。学校をサボって公開初日に行ったものの、絶望というか怒りというか、破壊衝動しか起こらないような駄作中の駄作でした。あれのせいで、7以降の作品を僕は認めていません。

そういえばあの日、ちょうどめんどくさい関係にあった女子も病欠したせいか、「2人が復縁してデートに行ったんじゃないか?」と次の日にクラス中の男子から茶化された事を思いだしました。たぶんこの記憶も相まって8が嫌いになったのでしょう。

話を戻します。もちろん、4〜6もいいのですが、如何せん古い。ダース・ベイダーが特に好きな僕としても、最初にオススメする気にはならないんです。

そこで、邪道ではありますが、1から6までを順に観ることを提案します。別に4以降を見ずして1からみても特に問題なく観れてしまうのがSWのいいところです。

3の良さはやはりダース・ベイダーの誕生にありますよね。あと、パドメ役のナタリーポートマンがめっちゃ美人。僕はあの女優がオードリーヘップバーン、ジョディフォスターの次に好きです。みんな貧乳ですね。

 

6、麗しのサブリナ

オードリーヘップバーンということでこの作品を。流石に白黒で古臭い感じはしますが、僕はこのサブリナみたいな女性が大好きなんです。お転婆で飾らないあの美しさに、男性が求める理想があるような気がします。オードリーヘップバーンといえば「ローマの休日」や「ティファニーで朝食を」や「マイフェアレディ」なども超有名ですが、やっぱり僕はこの作品が好きです。というのも、脇役があまりにも豪華で、ハンフリーボガードやウィリアムホールデンら、歴史に残る超名優が作品を艶やかにしています。

オードリーヘップバーンみたいな美しい女性と結婚したいなぁ。

 

7、プライベートライアン

一つのジャンルとして戦争映画は外せないですよね。あと、スピルバーグ作品も。

この作品は逆に冒頭がすごく有名で、スピルバーグだからこそ集められた資金をふんだんに使った、壮絶で凄惨かつあまりにもリアルな銃撃戦が繰り広げられます。

トムハンクスもかっこいいですよね。彼の作品といえば、フォレスト・ガンプやキャッチミーイフユーキャンもオススメですね。有名どころしかないです。

 

8、カッコーの巣の上で

これは色々と考えさせられる映画です。ジョーカー程度で考えさせられてるような人はこの作品を観た後にはどうなっちゃうことでしょうか。

犯罪者が刑期を減らすために精神病を偽り精神病院での生活を送ることになった、という作品なのですが、ラストシーンは観た人全員を鬱にする”魅力”があります。

本当にこの作品は若いうちに一度は見て欲しいです。特に医療に携わるという未来図を描いている人には是非。

この作品で主演を務めるジャックニコルソンは伝説的な名優でして、アカデミー賞に12回ノミネートするという、歴代一位の伝説的な記録を持っています。

そんな彼のキャリアハイと言われるこの作品ですから、素晴らしい演技にみなさん驚愕することでしょう。

ついでですが、彼はセックス依存症だったそうです。

 

9、仁義なき戦い

ここで日本映画を。あまりみなさんに馴染みがないであろうヤクザ映画の金字塔です。

菅原文太松方弘樹伊吹吾郎田中邦衛、梅宮辰夫、シリーズ全体で言えば小林旭千葉真一北大路欣也といった名優たちがそれぞれ渋くかっこいい極道を演じあげます。いやー、彼らみたいなダンディな男が騒ぎ立てられる世の中に戻って欲しいものです。

そこの男子諸君、朗報です。ヤクザ映画には付き物の”濡れ場”はしっかりありますよ。

 

10、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

ただ一言、アニメ版、旧劇、新劇を観ずしてエヴァを語るな。

 

以上で10作の紹介を終わります。

面白そうな作品があったら是非観てみてください!

もしよかったら感想等を聞かせてくれるとすごく嬉しいです。

是非みなさんも、映画という泥沼にドロドロとハマってみましょう〜!

同級生K

驕りだと思われるだろうが、「こいつには到底敵いようが無い」と思わされる人に現実世界で会ったことが殆どない。勿論、故人であったりメディアの向こうの存在であったり、一芸に秀でた様な人ならば枚挙に遑がないのだが、実際に会話を共にし得る存在の中で自分が圧倒される機会というのは極めて稀であった。

しかし、「殆ど」や「稀」と銘を打つ以上、少ないながらも僕が「完全なる敗北」を自覚した相手はいた。その一人が、僕が高校2年,3年と学級を同じくしたKである。

 

僕にとって彼は「途方も無い存在」だった。教養、機転、人間性、度胸、知性、、、如何なる点においても彼は僕の数段上を行き、僕が絶えず努力したとしても彼には敵いようが無いだろうという一種の諦念を抱かされる存在であった。

彼には「野心」や「行動力」といったものが欠如していた。しかしそれらの欠損は彼にとって瑕瑾とはなり得ず、寧ろ彼と接触した人が彼の人間像を「聖」という一語をもってして形容しだす様な、そんな「神秘性」を付与するものとなった。

僕は彼と初めて交友を持った頃、彼に対して強い嫉妬(というか負けん気)を抱き、彼と自分とを相対化する中で多少なり共の優位性を見出そうと苦心した。しかしそれは何の効果もないままに終わり、それ以来現在に至るまで僕は彼を尊敬...というかもはや崇拝すらしている。

 

今でもまだ度々会う機会があるのだが、何ヶ月か前に彼と交わした議論がたまに思い出される。

「賢さとは何だろうか?」というありきたりな議題を僕が掲示し、「”ノンジャンルの知的好奇心”と”頭の回転”と”絶対性への懐疑”」という3つの条件を僕が主張した後、彼は穏やかな笑みを浮かべながら「ユーモアのセンスかな」と答えた。

彼が異常なほどに謙虚であることを”知っていた”僕は「それは君には当てはまらない特徴の中からそれっぽいものを選んで言っただけだろ。過度な謙虚は時に有害だぜ」と返したのだが、彼はその笑みを絶やすことないまま「でも本当にユーモアのセンスは賢さを表す指標になると思うよ。必要条件ではないにしろ、十分条件は満たしていると思う。僕にはそれがないから、それを持っている人が非常に羨ましく見えるんだ」と言って話を閉じた。

二人は互いに、これ以上この話に発展性が無いことを察知し、共通の趣味である「クラシック音楽」へと話題を移した。その後、僕が繰り広げた「グリーグのピアノ協奏曲はエロい」だとか「カラヤンの「英雄(ベートーヴェン交響曲3番)」はビッチ臭がするのに対し、ヤルヴィの「英雄」は処女性が感じられて尊い」などの馬鹿話で盛り上がり、特に前の話題に触れることなく別れた。

 

今となっては、彼は「僕が彼を謙虚な人間だと知っている」ことを”知っている”わけで、「ユーモアのセンス」と答えれば僕が不満を口にすることを”知っていた”のは確実なのだ。それを踏まえた上でも彼が「ユーモアのセンス」を挙げたのだとすれば、そこには確かに彼がそこに本質を見出したことは疑いようが無いわけで、未だ僕がその真意を完全に把握できていないことに僕と彼との”差”が明らかとなるのであろう。

今からでもLINEを使ったり、会った時に尋ねればいいのではあるが、やはり彼へとより近づくために、自分なりの解答を見つけたいと思う。

国語のレポート

めっちゃふざけたレポートで般教にてAが取れたので、記念にそのレポートをブログにて保存して置きます。

2時間で書いたので読み返せば文章の稚拙さが目立ちますが、まあ、A取れたってことなので多めにみてちょ

 

本講義では、“文学史を代表する作家の小説を読みながら、大日本帝国が崩壊した後の日本人がいかなる心理的現実を生きたのかを考察”してきた。(シラバスより)

今回取り上げる「仮面の告白」であるが、この小説は三島由紀夫が自身の同性愛を吐露した作品という認識がもたれている。しかし、私はこの通説に対して異を唱えたい。

この作品は、三島由紀夫が自身の「失敗」を合理化するために執筆したものであるように私には思える。本レポートにおいては、私がそう考えるに至った要因を複数挙げて説明していく形を取ろうと思う。

第一に、この小説におけるヒロインである「園子」のような人格を持つ女性が、三島の作品において絶えず登場してくると言うことが指摘できる。現に「夏子の冒険」における主人公である夏子や「女神」における朝子、彼自身が「究極の小説」を目指したと語った遺作でもある「豊饒の海・第一巻 春の雪」における聡子らがそれに当る。

彼女らの特徴は「処女」であり「良家」に産まれ「学はなく」「非論理的」ではあるが、時に男性的(論理的)視点の予想を超える行動を起こす存在であること。確かに、この人物像、非論理的であり学がないと言う特徴は彼自身が公言する「女性嫌い」に起因するもあるかも知れない。彼は「男性は精神と肉体との二別が適うが、女性はそれができない」などの、“女性は感情的なものである”といった女性蔑視発言が目立つ。それらが「三島由紀夫」と言う仮面を被った上での発言であるのか、それとも本心からのものであるのかは知らないが現に男性は女性に優越すると主張する立場に自身を規定しているのは確かであろう。しかし、それだけが「園子」が他作品にも登場する理由にはならない。この作品に登場する「園子」は、三島自身が過去に交際していた女性がモデルとなっている。彼の作品において“魅力的な女性”として登場する女性たちの多くが共通する部分を持ち合わせているのは、その部分に過去の三島、いや平岡公威が魅力を感じたから、または彼が懐古するものにおける特徴がそれらであるからではないだろうか。

この指摘が正しいものであるとするならば、三島は人生における至る時においても「園子」との過去を、追懐しているまたは幸福な情景として思い返していることになる。

ではなぜ彼は「同性愛者」であると言う仮面を被らなければいけなくなったのだろうか。その点について私は先述の通り、彼は「過去の失敗を合理化」するためにこの作品を書いたのではないかと言う推察を私は立てた。

この作品の前半部は彼の同性愛的兆候を幼少期から学生期にかけて描かれてあり、後半部は「園子」との恋愛を軸に描かれている。その恋愛は戦時中におけるひと時の幸福として描かれてはいるが、交際を重ねていくその都度に自身の同性愛的傾向による“違和感”が生じ、それによって二人の関係は破綻する。

そもそも、作品執筆の3年前に「園子」のモデルであった女性が結婚したことを聞いた三島が心的ショックによりひどく泥酔したこと、その翌年に主婦となったその女性と出会い自伝作品の執筆を決意してこの作品が生まれたこと、この2点を踏まえて言えば、この作品がその女性との過去の思い出を内的に清算するために書かれたことは明白である。

また、彼が自らの「不可能」に直面する場面、学友に誘われて赤線へ行くも遂に至ることなく自身が同性愛者であることを確信する場面であるが、これと同様に遊郭での初体験においてその行為に絶望する描写は「金閣寺」における『想像裡の歓喜に比べていかにも貧しかった』と言う記述からも見られる。これより、確かに三島にとっての初体験は彼の想定を下回った興醒めなものであったことは確かなのであろう。しかし、果たしてそれは自身が同性愛者であるからの「不可能」であったのだろうか。自身が同性愛者であると言う論を補強するための要素であったと考えることはできやしないか。この小説は「園子」との失敗を合理化するため、また、自分ではない他人と結婚した「園子」への追憶を攘うために書かれたものであると言うにたる根拠は先に示した。この点を考慮するならば、この初体験の描写を始め、様々な同性愛的傾向を示す描写が「仮面」であることがわかる。この小説の前半部における主要的人物である「近江」や「セバスチャン画」、「粗野な漢たち」への特別な感情についてであるが、これは三島が彼らに感じていた「英雄的羨望」に起因する感情を、「性欲」によるものであるとあえて曲解したものではないだろうか。三島の小説において、教養や家柄は無いが肉体に恵まれた青年を「英雄」として登場させる作品は「午後の曳航」をはじめ多々ある。これは彼の少年期が病弱かつ虚弱なものであったが故に抱いた劣等感による、自身と対照的存在へと向けられた羨望であることは間違いない。また、彼が幼少期を祖母によって「女性的」に育てられたと言う経験も一助となっているのだろう。オスカーワイルドもまた、彼同様に幼少期を「女性的」に育てられた。三島は晩年において、古代ギリシア文化を引用した肉体的均整美と、ワイルドらを引き合いに出したダンディズムの必要性を強く説いた。ワイルドは「仮面の告白」の中にも語られており、また彼はソドム(同性愛者)であった。同様に作中で話題になるプルーストもまたソドムである。

三島は自身を、フランスの詩人で弱冠20歳にて夭折したラディゲに投影していたと語っている。彼の死生観、特に大東亜戦争にて青年のまま死ぬことに人生の終局を定めていた点はこれに大きく由来する。そのため彼が、自分をラディゲ以外の偉人に投影していたのでは無いかと言う推察は自然と納得がゆく。自身と同じような幼少期を過ごした不世出の天才詩人オスカーワイルドに抱いた羨望、それに自己を同一化させようと目論んだ青年が自身に何らかの特異性を見出そうとした際に彼の持つ「同性愛的傾向」に目を付けたのでは無いだろうか。幸いなことに、自分が小さい頃から「英雄的男性」に特別な感情を抱いているのは事実である。この、単純な羨望によって生じた「特別な感情」が、自身が「同性愛者」であるが故に生じたものであったのだと自分に言い聞かせ、そのような「仮面」をこの小説を通して衆目に晒すことによって、平岡公威は「三島由紀夫」と言う名の「仮面」を構築したのではなかろうか。

端的にまとめると、彼が小説において行ったとされる自身の「同性愛的傾向」の吐露は、第一に「園子」との恋愛が破綻するに至ったことを合理化させるため、第二に自身の初体験が失敗に終わったことを合理化させるため、第三に病弱かつ虚弱な自分故に抱く劣等感から、自身が尊敬する人物に自分を投影させるために行ったものではないかと推察できる。

これからはあくまでも私の私見であるが、三島はこの「仮面の告白」において作ったもの以外にも数多くの「仮面」を作り続けた人間のように思う。彼の小説・随筆・映像資料を拝見するに至り、彼ほどに緻密な思考力・膨大な知識量を持ち、現実を正確に把握することができていた人は今まで見たことがなかった。彼のような人間が時勢を見誤り、「三島事件」とのちに語られる惨劇を何一つの疑問もなく引き起こしたとは私には到底考えられない。彼にとって、その「惨劇の中に死ぬる愛国者」という「仮面」が、彼にとって自分がなりうる「英雄」だったのではないだろうか。

いかり肩な巨人

先日、友人と「なぜ日本には写実画という文化が確立されなかったのだろうか」という話をしました。

以下が僕の主張となります。

 

「絵を描く際に画家は何かしらの題材を選び、それを絵によって再現する。その題材は、時には空想上のものであるかも知れないし、また時には実在する草花のような身近なものであるかも知れない。後者に於いては、やはりその芸術の極地は完全なる複製を行うことにあると思う。実在するものを再現するという営みである以上、その技術の到達点はやはり完全なるトレース、すなわち写実画に他ならない。また、前者であったとしても同様に、その空想上の何かをあたかも実在するものように描くことが、その芸術の高度性を示すことになるだろう。何が言いたいかというと、写実というものは何かしらの要因が無ければ生み出されないというものではなく、絵画という営みが行われるならば必然的に志向されるものであると断定しても構わない。つまり、日本において写実画が文化として確立しなかった理由を考えていく上では、『なぜ生まれなかったのか』ではなく、『何が写実画の誕生を阻んだのか』にあると思うんだ。

西洋を例に出そう。

古代ギリシアローマ帝国においては、やはり写実的な芸術が創作されていた。しかし、中世から十字軍によってルネサンスが開花するまで、西洋芸術の写実性は失われ、のっぺりとした宗教画しか生み出されなくなってしまった。その原因は明らかで、キリスト教に依るものである。基本的には偶像崇拝を禁止するこの宗教に、文化的・政治的に支配された中世ヨーロッパでは、芸術の推進力となったのはその宗教的求心力である。すなわち、あくまでも概念化した信仰対象を崇拝するための手段として創作されるようになった芸術は、その写実性が失われてしまった。

しかし、ルネサンス以降、キリスト教によって奪われていた『理性』を取り戻そうと、世界を宗教を通してではなくありのままに見つめ出そうという運動が活発化し、それが今現在の『科学』と写実画を含んだ『芸術』とを創生した。

以上がものすごく端的にまとめた西洋芸術における写実画とキリスト教との関係である。西洋におけるキリスト教のような、写実画の発展を阻んだような存在が、たぶん日本にもあったはずなんだ。」

 

ここで僕の論は行き詰まりを見せました。

ここからは、僕とは全く異なる主張を行った友人の主張を以下にまとめます。

(大幅に改変するんで、本人が見てたらごめんちょ)

 

「俺は『芸術がある以上、必ずや写実画が生み出される』とする君の主張に異を唱えたい。そもそも芸術というもの自体が自然発生的なものなのだろうか。芸術が他の動物に見られるものではない以上、他の動物と人間とを分けているその境界である、言語的な文化の違いが芸術を生み出しているとは言えないか。君の話を聞いた後だからかも知れないが、俺は『宗教』が芸術を生み出す要因であったような気がする。ラスコーの洞穴に見られるような初期絵画もアニミズム崇拝の一環として捉えられるだろう。世界的にも、絵画の題材は宗教であることが多いし、日本においても古墳の壁画がその原始的なものだと思う。無論、当時の古墳は多分に宗教的なものであった。だから、俺は『何が写実画の誕生を阻んだ』のではなく、『なぜ生まれなかったのか、その点における西洋との差異はなんだ』で考えるべきだと思うな。」

 

以上が話の大まかな概要である。長々と書いたので、ここまでたどり着いた人は殆ど居ないかもしれないが、実はこれは未だ今回のブログにおける導入に過ぎないのです。もう少しだけ続くので辛抱強い皆様にはもう少しだけお付き合い願います。

 

今回のブログのタイトル名である「いかり肩な巨人」であるが、この「巨人」はプロ野球球団のことを指しているわけではありません。

皆さんは「巨人の肩に乗る矮人」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。ニュートンが初めて用いたと伝えられるこの言葉は『現在の人々は過去の人々よりもより大きな科学的功績を成し得ているが、これは我々が優秀であるからではなく、昔の人々が積み上げてきた功績をもとに研究を進めているからである』ということを意味します。

さて、導入の話と結びつけよう。

僕たちが交わした「写実画」に関しての論は、あくまでも高校教育や多分の一般教養と少量の専門知識とを持って語られました。ただ、僕らはこの会話を有意義なものであったと互いに自認しているし、なおかつ楽しいものであったとも思っている。まして、この論は先日のやよい軒終結したわけで、僕たちは決して今後独自に研究を行い結論まで至ろうとすることはないでしょう。

何が言いたいかというと、楽しい会話ができたから別にもう結構という話なのです。

しかし、より正確な結論を導くためには、僕たちが持ち合わせていないような、膨大な知識や過去の研究や事例、学説を学ぶ必要がある。このブログをどこぞの研究家に見せてみたら無数の赤線で僕らの論は修正を食らうことでしょう。

そう、この学問が発展した現在では、巨人の肩に登りきった状態でないと真理を見つけることは愚か、学問的な仮説を立てることすら叶わないのです。もし大した知識もなく仮説を立ててしまえば専門家たちによって炎上させられてしまう。

僕個人の意見でしかないですが、そんなのは余計なお世話なんですよ。

一つ例を出すなら、今物理学に対しての新たな仮説を掲示しようとするならば、古典物理学や数学を勉強し、大学・大学院にての研究や学習を行わなければならない。そのためには膨大な時間と労力が必要となる。数百年後には、もしかしたら人間の一生を経ても巨人の肩にすら到達できないほどの知識が積み上げられているかもしれませんし、もしそうなったら新たな知の創造はごく限られた人たちによるものとなってしまいます。

そう、巨人は年々いかり肩になっているのです。

知的創造や仮説を立てて友人たちと語り合うのは非常に楽しい。しかし、その「娯楽」は学問が発達していく上で得にくいものとなってしまう。

「どう考えるか」よりも「どれだけ知っているか」が要求されるような期間(受験勉強のような)が非常に長いものとなってしまう。

結局のところ、「知識の量」が必然的に求められるような社会へと舵が向きやすくなってしまうでしょう。(AIがインフォメーションタンクとして起用すれば別ですが)


結局のところ何が言いたいのかを自分でもイマイチ理解していないのでグダグダなブログとなってしまいましたが、何となくのニュアンスでも伝わればいいなと思う次第です。

 

三島由紀夫と村上春樹

0ー はじめに

記憶の覚束ない幼少期の頃から、親の読み聞かせを通して数多くの本に触れてきた。

読書という読書を始めたのは小学3年生の頃と記憶している。

それまでの自分には悪いが、「かいけつゾロリ」や「妖怪レストラン」は自尊心の都合上省かせて頂く。

僕が小学3年生だった頃、NHKでは「坂の上の雲」というドラマが放映されていた。

その”壮大さ”や”登場人物の漢らしさ”に惹かれた自分は、親にドラマの原作である司馬遼太郎の小説全8巻をねだり、そして1ヶ月のうちに読破した。

それ以降中学に上がるまで「司馬遼太郎」と「東野圭吾」、「伊坂幸太郎」のほぼ全ての著作を読み耽ることになるのだが、主題の都合上これまた割愛させていただく。

 

主題にある、2つの名前を知らない人はいないだろう。

前者は割腹自殺をした、難しい小説を書いた作家兼右翼活動家。

後者はエロくてキザな主人公が「やれやれ、僕は射精した。」とのたまう小説を書く作家、だとかノーベル文学賞受賞を毎回期待されるも逃す作家。

などと思われているであろうことは想像に難くない。

 

まあ、こうブログの主題にしている点から御察しの通り、僕はこの両名の小説を好んで読む傾向にある。(”日頃の僕”を知る人達は意外に思うのだろうが)

 また、三島作品といえば”思想”や”美”に重きが置かれている一方、村上作品はそれらを全て冷笑した、”自身の幸福”や”喪失”そして”孤独”について書かれたものが多い。

この点からしてみても、三島由紀夫村上春樹というベクトルの大きく異なる作家を両方とも好んでいるというのは少し奇妙なことに思えるかもしれないが、意外とこの両名を好む人は多いような気がしている。

 

1ー 三島由紀夫

三島文学の特徴は、やはりその文章そのものの魅力から語るほかない。

彼の書く文章の論理性や知的密度の高さは正に日本史上の奇跡としか比喩できないものであり、彼の書く物語は古典文学から西洋文学まで広く渡る三島の知性と教養によって紡ぎ出された傑作である。ただ、彼の作品には彼自身が抱いていた根深きコンプレックスがついて回るのであるが、これはいつか時間がある時に掘り下げよう。

 

オススメの小説

金閣寺」「午後の曳航」「女神」「春の雪」「奔馬

 

2ー 村上春樹

村上春樹の本は失恋した時に読め」とは僕が常に友人たちに向けて言っている言葉である。彼の著作を健常者が読めば「なにこのナヨナヨしい男。まぢキモいんですけど」

という感想しか出ないのは僕の両親を見るに明らかである。現に、8〜90年代を過ごしてきた大人たちの多くは「村上春樹フィーバー」の煽りを受けた世代であり、意外と彼の小説を一度は読んだことがあるという人が多い。ただ、その多くから不評を受けるのは先述の通りである。”愛した人と、互いに愛し合いながらも何かしらの原因によって別れてしまった過去がある”という方も割と共感できる作品であることだろう。

もし「自分は健常者である」という方がいたら是非、購入は見送ることをお勧めします。

 

オススメの小説

ノルウェイの森」「国境の南、太陽の西」「青春三部作」「ダンスダンスダンス」

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」

 

3ー なぜこの両者を好むのか

三島由紀夫を読み始めたのは当時の僕が抱いていた「知的虚栄心」に依る。

当時の僕は傲慢でかつ自身の才能を大きく過信していた。そんな「超頭いい自分」が三島由紀夫を読んだら「超々々頭のいい自分」になるものだろうと思いこみ、確か「潮騒」から手に取ったことを記憶している。しかし、彼の小説を読んでいくにつれ、自分を圧倒的に凌駕する天才が日本にはいたこと、本当の知性とはなんであり、少なくとも知性に傲慢は不要であることを学んだ。

村上春樹については、最初は特に読んでいても思うことは何一つなく、ただ「読みやすい文章だな」だとか「比喩めっちゃうめーな」などという貧弱な感想しか抱いていなかった。しかし、失恋をした直後に「ノルウェイの森」を読んだ時、その瞬間に僕の中における彼の存在は非常に大きいものとなった。読書をする際にも「運命的な出逢い」というものがあると噂には聞いていたが、僕にとっての「ノルウェイの森」はそれに当たるものだろうと思う。

両名の作品を読んでいく中で抱いた共通点なのであるが、彼らは両名ともに非常に社交的で教養に溢れ、いわゆる「外面のいい」人たちであるのだろうと感じるし、現に彼らのエッセイや彼らについてを書いた書物を読んでいくにつれてそれが確からしいことも掴んだ。しかし、その作品にはその「外面」とは打って変わり、「コンプレックス」や「トラウマ」などと言った、彼らの「内面」を大きく占めていたであろう「負の遺産」が散見される。

あまり自己分析が得意ではないため多くのことを語れはしないが、多分僕はその両名に強い共感を抱き、それ故に彼らの作品を多読しているのだろう。

どうもはじめまして。はじめました。

ここ数日、あまりにも怠惰な日々を過ごしている。

11時という、辛うじて午前中といえる時間に目を覚まして、日が暮れるまで本を読み、またはゲームをし、夕食を作ってはまた本を読む。

「時は金なり」とはいうが、もし時間を金に換算しようものなら、僕は紀伊国屋文左衛門と引けを取らない浪費家と言えるのかもしれない。

確かに、大学生の長期休暇期間というものはそんなもんでしょう。

サークルの合宿や帰省などといった、日々に何かしらの「意味」を付与してくれるイベントもそれなりにはあったが、その数を大きく上回るこの「夏休み」という日々。

そりゃ、何の意味も持たない無味乾燥とした「余白」が生じるのはしょうがないことなのです。

ただ、このまま何一つも生み出さぬままにこの「余白」を消費し続けるのは決して望ましいものではない。

そこで、昔使っていたアカウントをリユースしてみようと思い立った次第です。

 

今後、多くて週に一度、最悪でも月に1〜2度は更新しようと思いますので、もし興味のある方がいらっしゃるようなら御愛顧ください。